思考の心理学 青年期 A:思考とその操作

青年は、子どもに比べると、体系と「理論」をつくりあげる個人である。子どもは、体系をつくらない。子どもは体系について無意識的だ。いや、前意識的だ。というのも、子どもは、体系を定式化する事が出来ず、または定式化しないからだ。子どもは、体系を決して、「反省」せず、外部からの観察者だけが、その体系を取り出す事が出来るのである。言い換えれば、問題が現実から課せられる限り、子どもは問題ごとに具体的に考える。そして、原理が引き出される一般理論の手段に、その解決をむすびつける事はしないのだ。反対に青年で注目すべきことは、日常的な現実とは無関係な非現実的な問題、または、赤裸々な素朴さで、世界の将来の場面および空想的な場面を予想する非現実的問題に対して、興味を持つという事だ。特に驚くべきことには、抽象的な理論を容易に仕上げるという事だ。著述をうする青年がいる。彼らは、哲学、政治学、美学、またはやりたいことを創り出すのだ。ある青年は、著述はしないが、話しをする。大部分の青年はわずかの個性的所産だけしか語らず、ただ、秘やかな内面的な仕方で反芻するにとどまっている。だが、全ての青年はいろいろな点で、世界を変革する体系や理論をもっているのである。ところで、一般的な観念と抽象的構造によるこの新しい形の思考の出現は、じっさいには、第二児童期固有の具体的思考から出発して、外見ほど唐突ではないかなり連続的な仕方でおこなわれる。じっさい、12歳ごろを決定的な曲がり角として、位置づけなければならない。そしてそれ以降、現実からはなれた自由な反省の方向に、次第に飛び立っていく。事実、11,12歳ごろに子どもの思考の中に、根本的な変化がおこなわれる。それは、第二児童期の間につくられる操作に対する完成を示している。すなわち、具体的思考から、「形式的」思考─語法に反してはいるが明確な言葉で言われているような、「仮説・演繹的思考」─への移行だ。

…11,12歳になると、まさに形式的思考が出来る様になる。つまり、論理操作が、具体的なとりあつかいの面から、観念─何らかの言葉(単語または数学記号による言葉)では表現されているが、知覚や経験や信念すらによっても支えられていない観念─だけの面へ移され始める。実際、さっき引用した例で、「エディットは、リリーよりも髪の毛が濃い」等と言うときは、思考にとっては単なる仮説にすぎない三人の虚構の人物が、抽象的に設定され、この仮説の上で、推理する事が要求されるのだ。だから形式的思考は、「仮説・演繹的」だ。つまり、実際の観察からだけでなく、純粋な仮説から、ひきだすべき結論を演繹する事が出来る。その結論は、事実の真理とは無関係に妥当なものでさえある。したがって、この思考形式は、具体的思考よりも大きな困難と精神作業とを、示しているのである。

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